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選手インタビュー


選手インタビュー
選手一人ひとりにドラマがあるー 森岡隆三のドラマ
森岡隆三

 2002年日韓ワールドカップで、日本代表のキャプテンとして、守備の要として、絶大なる信頼を得ていた森岡。だが、初戦、相手との接触でケガをしてしまう。

「自分は代表とは程遠い場所にいるのかもしれない。でも、どうしてもリベンジしたい。ワールドカップでやり残したことを」

サッカーを始めたころ
森岡隆三

 森岡には、ふたりの兄がいる。

「3歳か4歳くらいのとき、朝起きたら、家の外で、壁にボールを当てている音がした。外を見たら、兄貴たちがやっていて、そこに乱入していった、っていうのが僕のサッカーの始まりだった」

 森岡は、サッカーが、まだどういうスポーツなのかも知らない幼いころに、壁に向かってボールを蹴り、どれだけの距離を飛ばせるのかを楽しみ、きれいにボールを蹴れたときの気持ちよさに、夢中になっていたという。

「家の前は坂道だったから、うまく壁に当ててないと、ボールが下まで転がっていっちゃうんで(笑)」

 森岡のふたりの兄はサッカーが上手かった。一番上の兄がやっていたサッカーを、2番目の兄もやり、そして、森岡も自然にボールと遊んでいた。

「真ん中の兄貴は、地元じゃ相当有名で。一緒にやってて、負けたくないなって気持ちはあったけど、僕らのスーパースターだった」

 身近にいたスーパースター、そして、当時、海外のサッカーを紹介するテレビ番組「ダイヤモンドサッカー」を見て、憧れを抱いていた森岡。そんな森岡が、幼稚園の七夕、短冊にお願い事をした。

「世界のプロサッカー選手になれますように」

 だが、その森岡の夢は、小学生、中学生と過ごしていくにつれ、薄れていくことになる。

「小学校で6年間サッカーをやった。でも、トップをとったわけでもない。中学校でもサッカーをした。でも、強いチームにいて、いい成績を残したわけでもない。中学校までは、地区の小さな大会でも勝てないチームだった。自分が、特別上手いとも思ってなかったし。プロの選手なんて、はるか高み、とても想像つかなかった。現実的に『プロになんか、なれねぇ』って思った」

 森岡は、ただ少しでも上手くなりたくて、日々、自分との勝負をしながらサッカーを続けていた。

高校時代
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 勉強もできた森岡は、家から自転車で通える桐蔭学園(神奈川)を中学受験して、合格。そして、同高校へ進んだ。桐蔭学園は、「真のエリートの育成」を目指す、文武両道校。

「高校は、エスカレーターで上がったんだけど、中学の終わりのときに、サッカー部のAチームに行くか、公式試合に出られないBチームに行くか、考えた。普通に行ったら、Bチームに行くことになるから、自分で『Aチームに入れてくれ』って志願しに行った」

 桐蔭学園高校サッカー部は、全国大会にも出場する強豪校。サッカー部員は、選抜選手をスカウトで集めてきていた。それがAチーム。

「サッカーは、ずーっとやってきたことだから、上にトライしたい、っていう気持ちだけでAチームの練習に無理矢理参加しに行った。最初のうちは、ものすごく厳しくて、ついて行くのがやっとで。遠征先から、『もう、おまえ帰れ』と、数人で帰されたことが何回もあった」

 高校で始めて強いチームにポンと飛び込んだ森岡。周りは、サッカー推薦で入ってきたレベルの高い選手ばかり。日々、悔しい思いだらけだったという。中学から一緒に上がったメンバーの中で、残ったのは森岡ただ一人。悔しさの中、「もっと上手くなってやる」という気持ちだけで一生懸命練習をした。

 練習は厳しかったが、「サッカーって、こういうスポーツだったんだ」とサッカーの基礎を知っていったという。

「厳しいことを言われてるんだけど、身になってるっていう実感があって。自分が上手くなってるなって思うと、すごく楽しかった」

 その厳しい監督とは、李国秀監督(元ヴェルディ川崎総監督)。森岡は、李監督からサッカーを学んでいった。

森岡隆三

 森岡は、高一の終わり、冬の選手権のときに、レギュラーになった。

「突然、予選のときに、『隆三を一度メンバーに入れる』って、監督がみんなの前で言ってくれて。僕のことを見てくれてたんだ、って思った」

「一度デカい舞台を踏んどいた方がいい」と言われたのだという。
 だが、森岡は、なぜ自分が選ばれるのか分からなかった。

「途中交代で出たんですけど、スタジアムでやるのなんか初めてだから、緊張するかなーと思ったら、入ったら案外、楽しくてね! これがサッカーやなって感じでしたね」

 森岡が高校3年生のときに、Jリーグが開幕した。その数年前からプロ化の動きがあったが、そんな話が聞こえてきても、森岡は、自分と結び付けて考えたことはなかった。
 もともと、スポーツ推薦ではなく、一般受験で学校に入った森岡は、「大学にまずは進学する」、そう考えていた。
 ところが、インターハイが終わったときに、監督から「プロに行くか、大学に行くか、1週間で決めろ」と言われたという。

「鹿島アントラーズの練習に参加させてもらって、いろいろ考えたけど、結局は、『自分がやれる、やれないじゃなくて、サッカーをこれだけやってきて、やるからには、日本で一番レベルの高いところで、やってみたい』っていう思いだった。うまくいかなくても、絶対いい経験になるんじゃねーかって思った」

プロ
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 '94年、森岡は鹿島アントラーズに入った。

「プロに入って、一日も練習しないまま、いきなり両足の疲労骨折が判明して…。そのまんまリハビリ直行ですよ。2、3ヶ月チームと別だった。その間に、一緒に入った同期はどんどんデビューしていって、めちゃくちゃ焦りましたね。『何してんだろう…』って思った。リハビリからチームに合流しても、初めは、なかなかプロのスピードについていけなかったですね」

 自主練をして臨んだプロでのスタートだったが、出だしから相当きついものになった。
 だが、そんな森岡にもJリーグデビューのチャンスが巡ってきた。

「リハビリから抜けて2ヶ月ぐらいで、いきなりチャンスが回ってきて。地元横浜マリノスとの試合('94/8/17)に出場した。目の前で、ラモン・ディアス(元アルゼンチン代表)という選手に、切り返しからすごくいいシュートを決められて、ショックでしたね」

 試合前のウォーミングアップ時に、森岡は過度の緊張に襲われていたという。

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「本田さん(本田泰人氏/元日本代表)が、『いつも通りやればいいんだよ』って声をかけてくれて、すんごい気が楽になった。ピッチに入ったときには、緊張はもう抜けてましたね」

 試合での一瞬一瞬のプレーの厳しさは、今まで感じたことのないものだったという。その分、試合後の疲労度も大きかった。結果は、PK戦の末、敗北。負けた悔しさは大きかったが、「これはやめられない」という気持ちよさを感じたという。
 プロにとっての大事なデビュー戦。「いつも通りやればいいんだよ」の一言が、森岡にとって特別なものとなった。

 鹿島で15年間にわたってプレーした本田さんは、昨シーズンをもって現役を引退。その功績をたたえ、鹿島の背番号6は、準永久欠番となった。
 今シーズン、森岡がつける背番号は、6。新たな出発をした森岡は、初心を忘れず、今も本田さんの言葉に勇気づけられていることだろう。そして、森岡は、若手選手に温かい一言をかける。

移籍
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 鹿島に入って一年半ぐらいしたとき、清水エスパルスから移籍の話が舞い込んだ。清水は、即戦力として森岡に期待をしていた。

「サテライトで調子がよくて、そろそろチャンスがもらえるかな、ってときだったから、いろいろ考えた」

 鹿島にいても試合に出られたかもしれない。だが、森岡は、「他のチーム行くのは、自分にとって、いい経験になるだろう」と清水に行くことを選んだ。
 当時の清水は、地元出身者以外の選手がほとんどいなかった。
「そういう中に入って行くのも、すごくいい経験になる」と、考えたのだ。

 森岡は、'95年シーズン半ばから、清水エスパルスにレンタル移籍をした。
清水に行った森岡は、ひたすらサッカーに打ち込んだ。練習場と家との往復のみの、サッカー中心の生活。休みの日も、チームメイトと仲良くすることより、時間があれば練習場に出て行った。
移籍をして半年間は、サッカーのこと以外、頭になかったという。

「試合で勝つ喜びと、味方が点を取ったときの喜びと、失点したときの悔しさと。それ以外は何も残ってない」

 地元サポーターが、初めから、よそ者の森岡を受け入れたわけではない。
だが、森岡は覚悟をして、清水に一人、サッカーをしに来ていた。森岡、まだ19歳のときである。

「レンタルで行くって言っても、もう二度と帰って来ないって気持ちで行かないと、絶対に成功しないと思った。プロで行くっていうのは、『人の職を奪いに行く』ことだ」

 森岡は、清水でレギュラーをつかんだ。
シーズン半ばに移籍してから、25試合に出場。慌ただしく、濃いシーズンを過ごした。
 半年後、清水に完全移籍。
 森岡は、清水で試合を重ねた。

 '99年、日本代表から声がかかった。

日本代表
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 森岡が日本代表に初めて選ばれたのは、'99年3月トルシエ監督時代。森岡、23歳のとき。その後、トルシエジャパンの守りの要として、'00年シドニー五輪ベスト8、'00アジア杯優勝、'01年コンフェデ杯(プレW杯)準優勝、'02年W杯出場をつかむことになる。

「初めて代表に入ったときは、僕なんか入っていいのかなって思いが強くて。まだ早いだろうって思っていた。けど、いざ選ばれると、試合に出たくなる」

 当時の森岡は、「僕が代表の監督だったら、選ばないっすよ」と、よく言っていたという。

「自分では、まだまだ足りないとこだらけっていう思いがある。だけど、日本を代表して試合に出たら、そういう自信のない姿は見せちゃいけない。周りは自分を日本代表として見るから」

 森岡は、自分と、自分に求められるものとのギャップを感じていた。

 だが、代表でやっていくうちに、自然と変わっていったという。

「プロに入った時点で、常に見られている存在っていう、責任感をもってプレーしてきたつもりだったけど、代表に入るとより注目度が高まって、責任感もついていった」

 代表の遠征、合宿、試合、特にオリンピックのあった'00年は、日本代表として動く時間が多くなった。

「代表で動いている時間が長くなると、清水でのプレーと代表でのプレー、どっちが主なのか分からなくなる。試合数が増えると、戦術の切り替えとか、コンディションの調整とかが、難しかったですね」

1ヶ月近く続いた海外遠征から戻ると、その1週間後には、リーグ戦が待っているという過密スケジュールの中で、体をケアする時間はほとんどなかったという。

 ハードな日々だったが、代表のピッチには、他では味わうことのできない興奮が詰まっていた。それは、サッカー選手の中でも、代表に選ばれた者だけが、味わえる興奮。

「観衆がいて、僕らのプレーに一喜一憂して、勝ったときには、スタジアム全体で盛り上がれる。喜びをみんなで分かち合える、その一体感には、何とも言えない興奮がある。Jリーグのピッチも、もちろん興奮するし、楽しい。けど、日本代表は、また別なんですよね。日の丸を背負って戦うことは、これまた何とも言えない喜びがあって、楽しかったですね」

 森岡は続けた。

「背負っているものが大きければ大きいほど、プレッシャーになるんだけど、そのプレッシャーをうまく、自分なりに乗り越えてできたときの喜びは、ものすごく大きいものがある。舞台が大きくなればなるほど、やっぱりおもしろいんですよ。そういう風に思えなかったら、たぶん、選手としてはうまくいかないんじゃないかな」

'02日韓W杯
森岡隆三

「W杯は、子どものころから、『夢の舞台』というか、自分とは掛け離れた世界だった。日本がそこに出るってことを考えたことも、想像したこともなかった。自分がW杯に出るチャンスがあるって分かったときには、すごい喜びと驚きがあった」

 森岡は、'02年2月にケガ(肉離れ)をして、治る間際に、また肉離れを起こした。それでも、まだW杯に間に合う、と信じてリハビリを続けた。
 森岡は、W杯日本代表が決定する5月17日に滑り込んだ。W杯開催直前の5月25日、キリンチャレンジ杯(対スウェーデン)で、半年ぶりに代表復帰。

「試合の帰りに、バスの中で見た東京タワーが青くなってて。みんなで『青くなったね』『すっげーね』って、そんな話をしたことが、すごく印象に残っています」

 W杯に向かって、日本中がヒートアップし、ジャパンブルーに染まっていった。
日本代表の試合はフル満員で、スタジアムは真っ青になり、ニッポンコールでスタンドは揺れた。スタジアムに入れなかった多くのサポーターが、スタジアムの外でも応援をした。

「W杯が近づくにつれ、僕たちを応援してくれる力を感じた。ホームなんだ、って実感した。でも、自分は熱くならずに、冷静に戦わなきゃいけないって、宿舎では極力周りの声や情報を聞かないようにした」

森岡隆三

 6月4日、W杯初戦のベルギー戦。森岡は、日本チームのキャプテンとして、また、トルシエジャパンのフラット3(ディフェンス3人が横一列に並ぶ戦術。トルシエジャパンのシステムでは、バックの3人が、ゲーム全体を組み立てていく重要なポジションとなる)の要として、出場。
 暑さの中、体を張って戦っていた。長身選手が多いベルギー相手に、森岡はヘディングでも競り勝ち、積極的なラインコントロールで、守備を安定させていた。
 だが、後半開始直後に打撲を受け、左足を負傷。後半26分、交代を余儀無くされる。
 負傷退場した森岡だったが、次のロシア戦に切り替え、調整を始めた。「ロシア戦には」、その次の「チュニジア戦には」…、また自分がピッチに立てると信じて、トレーニングを続けたのだ。

 だが、チャンスはもう訪れなかった。
 足の具合はよくならず、夢の舞台に立てたのは、わずかに1試合。交代するまでの70分間だった。

自分が出ることのできない試合。
 森岡は、キャプテンとして、日本代表チームを最後まで盛り上げた。
 日本チームは、予選を突破。ベスト16という歴史的にも素晴らしい結果を残した。その健闘は、サッカーファンを超えて、日本中を熱狂させた。

「正直言って、日韓W杯で僕にとって一番何が残ったか、って言ったら、悔しさです…」

 そして、森岡は、「2002年を一番楽しみにしてたんですよ」としみじみ言った。
 夢に向けて積み重ねた努力が報われる大会になるはずだった。
 W杯に日本が出られるチャンス。その時に、代表に選ばれ、ピッチに立つことができるチャンス。それが、いかに数少ないチャンスなのか…。

 森岡はW杯出場前の'02年1月、清水エスパルスで天皇杯優勝を決めた後、オフを使って、イギリスを訪れていた。プレミアリーグのトッテナムのトレーニングに参加していたのである。以前から英会話も学んでいた。欧州クラブへの移籍を視野に入れてのことだ。
森岡は、小さいころから、常に「自分がどうすればもっと上手くなれるのか」を考えていた。それは、日本を代表する選手になってからも変わらなかった。そんな中で、浮かんできたのが、海外移籍だったのだろう。森岡は、W杯が海外移籍のステップになるかもしれないとイメージしていた。

 W杯を、そして、W杯後の自分を、心待ちにしていたに違いない。
 だが、皮肉にも、W杯イヤーの'02年は、森岡のサッカー人生の中で、一番サッカーをしない年になった。

 努力ではどうすることもできないことがある。
 森岡は、W杯の大舞台で、試合に出られる幸せと、試合を外から見るしかない切なさの両方を味わった。

 森岡は、ただ自分を不運だと、終わらせなかった。
「絶対もう一回は出てやる」と思った。

「プロでやってる以上は、代表っていうところは常に視野に入れている。向こうは見ていなくても、こっちから見るのは、自由ですからね。W杯に残してきたものは、大きいんで。サッカーをやってる限りは、もう1回行きたい、っていうのが本音ですね」

サンガ移籍
森岡隆三

 2007年、森岡のシーズンは、京都サンガF.C.でスタートした。

「移籍は、なかなか思い切った決断だったんですよ。清水で11年半やってきて、この先のことを考えたとき、清水はやっぱり長くいる分、居心地がよかった」

 森岡は続けた。

「でも、いちサッカー選手として、そして、選手が終わった後の、いちサッカー人として、この移籍は、得るものがデカいだろうなって。外に出ることによって、また違うサッカー感も入ってくるだろうし」

さらに続けた。

「サンガは、J1、J2を行ったり来たりしている中で、去年J2に降格したところから、もっといいチームを目指してはい上がろうとしている。サンガに自分と似てるものを感じたんです。自分が今まで得たものが、チームのプラスになるならいいなって思った」

 森岡は、この移籍を「ゼロからのスタート」だと言った。
 11年半過ごした清水を出て、未知の土地へ。
 清水では、いくつものタイトルを手にし、日本代表として、38試合に出場した経験がある。だが、京都で、レギュラーを確約されているわけではない。
 32歳の森岡は、自分を信じ、移籍を決意した。

森岡隆三

「あと、何シーズンできるか、現役で何日やれるか、一日一日に対する思いが強くなったんです。自分の可能性をもう少し見たい。一日一日を一生懸命やって、一日にほんのちょっとでも成長して、もっといい選手になりたい」

 そんな謙虚で、確かで、熱い思いで、森岡は今、サッカーと向き合っている。

 京都に生まれ育つとよく分からないが、京都に憧れをいだく人は少なくない。森岡も、その一人だった。

「京都に住むっていうチャンスは、人生の中で、きっとなかなかないしね。静岡にいるときは、友達もそんなに遊びに来なかったけど、『京都だったら、遊びに行くよ』っていう声が多い(笑)。都ですからね。歴史的な昔からの町並みと、モダンな建物が融合していて、古くても素晴らしい街だと思うんです。僕もサッカー界では、古いものになってきた。古くてもいいものを見せたいと思うんですよね。僕も若手から見習うこともあるし、進化していきたいなって思います」

取材が終わってから、森岡はさらりと言った。「また、W杯のこと、いくらでも喋りますよ」と。しまって置きたい悔しい体験だっただろうW杯のことをである。森岡は、日々自分について考え、思い返すのがしんどいことでも、しっかりと見つめ、次に活かして前を向いて進む。そのスピリットに、私は男の強さと、心の広さを感じた。
 W杯でケガに泣いた男は、その試練を乗り越え、自分のものとして大きくなっている。トルシエ氏が、意見をぶつけ合いながら、キャプテンとして頼りにした理由が分かる気がする。夢に向かう情熱と、大きな重圧に耐えられる強い精神力がないと、その役目は務まらない。
 そして、サッカー選手としても、人としても、「もっとよくなりたい」と思うのは、自分を信じ、進化し続ける自分に手ごたえを感じているからだろう。

 ツイてるのか、ツイてないのか…。森岡のサッカー人生は、過激だ。
 いい事があれば、悪いことがある。悪いことがあったら、いい事があって。そんなことの繰り返し…。
 今、森岡はJ2でサッカーをしている。

インタビュー/2007.11.8
photo & text by Noriko Nagano
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